執筆者 : 沢渡 亨
くまもと食・農ネットワーク会員や当サイトをご覧の皆様に、くまもと食・農ネットワーク運営委員の、日頃の地産地消に関する活動や考えをご紹介することで、皆様の更なる地産地消活動への一助にしていただくため、当ネットワークの運営委員や関係者によるリレーコラムを掲載しています。
第71回目は、水俣市の物産館愛林館館長の 沢渡亨さんです。
執筆者 : 沢渡 亨
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第71回目は、水俣市の物産館愛林館館長の 沢渡亨さんです。
9月下旬、稲刈りが始まった
稲作伝来の頃 愛林館(水俣市久木野) 沢畑亨
収穫の秋。私の住む水俣市久木野地区の棚田では、稲刈りがかなり進みました。8月にさっぱり日が照らず心配しましたが、凶作ではないようです。
稲は日本列島に元からあったわけではなく、遠い昔に誰かが持って来たものです。それが、しっかりと根付いて、水田は棚田となって山に登り、地下水を育み、赤トンボを育み、1000年以上連作しても何の害もなく食糧を生産しています。これを考える度に、すごいなあと感心するばかりです。それと共に、いろいろ想像が膨らみます。
遠い昔、アジア大陸や朝鮮半島から海を渡る時に、どうやって籾が海水や雨水に濡れないようにしたのでしょうか。木の箱? 土器? むしろくらいはかぶせたのでしょうか? 種籾が海水をかぶったからと言って、すぐに枯れるものでもありませんが。
水田を作るのは大変だから、とりあえずは畑で陸稲を育てたのでしょうか? 最初の水田を作る時には、「おいしくて確実に採れる『稲』を育てよう。労力はいるけど、子孫に安定した収穫を残してやろうではないか。」という会議をしたのでしょうか? それとも、稲と一緒に武器も持ってきた征服者が「お前ら働け!」と命令したのでしょうか?
水田を作り、農作業をする時も、陰ひなたなく働く人間と、偉い人がいる時だけ働く人間もいたのでしょうね。田植えが一段落した後のさなぶりでは、何をご馳走として食べていたのでしょうか? 以前訪れた吉野ヶ里では、ものすごーく大きい牡蠣の貝殻が出土していました。漁師の杉本さんに聞いてみると「あんまり採らんけん太ぅなっとたい」ということでした。海の幸、川の幸、山の幸も、今より豊かな部分はあったのでしょうね。昔の球磨川は鮎を踏まないと向こう岸へ渡れない、という話があったくらいですから。
稲刈りの後にはお祭りをしたのでしょうね。これで今年は飢えずに済む、と安心できるほどの収穫があったのでしょうか。その時に飲む酒は、焼酎ではなくどぶろくだったのでしょう。
稲を持って来た人、それを受け継いだ人、稲作の技術を開発した人、品種改良をした人、その上で現在棚田を守る人、大勢の人の努力があって今年の収穫なんだなとしみじみ思ったことでした。